About me
胡 真山 | KO SHINSAN
Working mainly with Adobe Premiere Pro
Currently exploring DaVinci Resolve
Open to opportunities
huzhenshan8@gmail.com
映画、音楽、カルチャーを横断しながら、既存の映像や物語を再構成する自主制作を続けています。
映像を、単なる情報伝達や消費のための装置としてではなく、思考や感情、歴史の手触りが立ち現れる場として捉え直したいと考えています。
クローズアップ、モンタージュ、時間操作、既存素材の再編集を通して、心理や記憶、時代の空気を可視化する表現を模索しています。
THE GAZE
「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。
それにはひとりの天使が描かれており,天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのようにも見える。
かれの目は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。
かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。
そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。
たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、
しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。
強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。
その一方ではかれの眼前の廃墟の山が天に届くばかりに高くなる。僕らが進歩と呼ぶのは〈この〉強風なのだ。
ベンヤミン「歴史の概念について」第九テーゼ (野村修訳)
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01 / THE IRREVERSIBLE WOUND
〈強風〉はつねに天使の背後から吹きつけている。
ベンヤミンのまなざしのなかでは、天使の身体と廃墟のあいだに、ひとつの神聖な境界がある。祝福を受けた天使が、未来に背を向けたまま廃墟を越えてゆけるのだとしたら、人間はただ瓦礫のただなかで、自らの身体をもって歴史を知覚するほかない。
あらゆる真の進歩は、不可避的に身体の裂傷を伴う。歴史がやさしく身体を通り抜けることなどない。歴史として刻まれるものはすべて、痛覚という名の傷痕を身体に残す。傷が癒えることはあっても、「元どおりになる」ことはない。
滑稽なのは、こうした傷を抱えたまま、その上にかぶせられた「平滑さ」を、時代の「祝福」として受け取ってしまうことだ。だからこそ、私にとって映像制作とは、平滑な幻影をつくり出すための技術ではなく、亀裂を残すための実践である。
タイムラインの上で行っているのは、この欺瞞に満ちた平滑さへの抵抗である。暴力的なジャンプカットや非線形のコマ抜きによって、映像の身体に癒えない傷を刻み込む。そうした傷を隠蔽するつもりはない。
なぜなら、二度と修復されることのないその欠落のなかにこそ、失われた時間の感触と歴史の重みが、ふたたび立ち現れるからだ。
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02 / BEYOND ALGORITHMS
私は人工知能(AI)そのものを否定しているわけではない。
むしろ、AI がいつか単一の資本の論理から離れ、独立した思考の主体となりうることを期待している。
その一方で、e/acc(effective accelerationism)がまとめている技術神話には警戒心を抱いている。そこで称揚されているのは、しばしば智慧そのものではなく、技術の名のもとで際限なく増幅される速度、効率、拡張への衝動だからだ。
プラットフォームとアルゴリズムが支配する視覚環境のなかで、映像はますます「絶対的な現在」へと圧縮されていく。あらゆる一秒は、滞在、反応、転換、そして数値化可能な価値へと即座に回収されることを求められる。過去の痕跡を帯びた、滞った、重たい時間は、流通の効率を妨げるノイズとして扱われ、最適化の過程でふるい落とされていく。
映像表現において拒みたいのは、まさにこのような歴史感覚の剥奪である。無摩擦の加速が求められるこの時代にあって、むしろ滑らかさの反対側に立ちたい。映像がふたたび滞りを帯びたとき、時間の重みはようやく立ち現れる。
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03 / ANTI-BUZZRU
私の創作は、映像のなかで時間がどのように組み替えられ、圧縮され、やがて抹消されていくのかに関心を向けている。
映像を、刺激や情報を効率よく伝達するためだけのメディアとしては捉えない。私にとって映像は、視覚的な表層であると同時に、意味が立ち上がる場でもある。そこには、いまだ尽くされていない意味があり、歴史があり、欠如があり、まだ終わっていない可能性が潜んでいる。
「ANTI-BUZZRU」は、そうした時代の傾向に対する私なりの応答である。映像を、単にデータや効率のために機能するものとしては捉えたくない。映像は、意味が立ち上がる場であり、思考が生まれ、他者や時代、現実とのコミュニケーションをひらくための媒介でもある。
映像制作において、そのような場としての可能性を、もう一度引き寄せようとする試みである。